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●月刊誌『健康と良いともだち』からの転載です。

  82〜80 slash 79〜70 slash 69〜60 slash 59〜50 slash 49〜40 slash 39〜30  

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2014 / 11 / 27
 
 
   現地ではアラビア語と仏語しか通じないと言われ、今回はツアー旅行にした。しかし参加者は私たち夫婦のみ、専属ドライバー付きの旅となった。
 カサブランカの空港から三時間ほど走ると、モロッコ南西部に位置する大都市「マラケシュ」だ。旧市街はメディナと呼ばれ、有名な「フナ広場」を中心に路地にはぎっしりと土産物屋が並ぶ。その雑踏、色彩、バイクやロバの騒音などで、一時間も歩くとくたびれ果てた。まるで築地場内の朝の風景と師走のアメ横が延々と続くようだ。
 市場を抜け、宿のある住宅街の路地に入ると、今度は物騒なほどの静けさだ。一メートルほどの幅しかない道なのに両側の壁は恐ろしく高く、行き止まりも多い。建物に色やデザインの特徴もないので、角を曲がると方向感覚も無くなる「迷路」だ。
 新市街に出れば風景は一変する。マックやスタバまである。道は広く車が行き交う。ただ、失業者が多いのだろうか、あちこちに何もせず、しゃがんだり寝そべった人々を見かける。
 翌朝、大西洋に面した世界遺産の街「エッサウィラ」に向かう。舗装された一本道は立派だが、途中、町らしい町はあまり無く、砂漠のような景色が続く。三時間弱で目的地に着くと、そこは白い別荘などが建ち並ぶ観光地だ。海辺で魚の塩焼きを久々に食べると、元気が出てきた。モロッコではタジン料理に期待していたのだが、味付けが濃く、殆ど同じ。ニンニク、クミン、サフラン、ミント、レモンなどの調味スパイスを大量に投入、これでは素材が活かされない。がっかりしたが、一週間足らずの滞在では分からないことだらけだ、モロッコ。
 
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▲エッサウィラへの途中、それは突然現れた。1本のアラガン(オリーブに似ている)の木の上になんと本物の山羊が鈴なりだ。車を止めて納得。一頭の山羊を抱えたおじさんがチップを求めて走ってきた。観光客目当てなのだ。ただ、山羊がこの木に登り、その葉を食べるのは事実だとか

 
 
  oma  
  那須では今も除染作業が行われている。先日も無人の小さな隣家で十名ほどの職員が一日がかりで作業をしていた。あれから三年半、除染に意味があるのか、私には分からない。  
han
  title78
2014 / 9 / 29
 
 
   ヨーロッパ各国の交通信号、都市部でも少ないのだが郊外に出ると、まず見掛けない。殆どがラウンドアバウトという円形交差点なのだ。
 ルールを理解すれば、ドライバーにとってこんなに便利で安全な交差点は無い。通過方法は、ちょうど縄跳び「おはいんなさい」の要領に似ている。信号がないので、左側からの車に注意しながら進入、走りながらウインカーを出せば、自分の道に抜け出せる。土地勘がなく自分の出るべき道が分からない時は、内側の車線を回りながら行先の表示を捜せばいい。Uターンをして、来た道に戻っても構わないのだ。
 交差点は十字路だけではない。三差路や五差路、六差路以上であってもラウンドアバウトの運転方法は全く同じだ。その点、日本の交差点、多差路の場合は待ち時間は長いし渋滞の原因にもなる。当然事故も起こりやすいだろう。
 先ごろ日本でも「環状交差点」の設置が始まったそうだ。国内の場合、今から開発される新しいものや、広い土地のある郊外などには可能だろうが、既製の、交差点が狭くて用地の確保が困難な都会に設置するのは大変だ。しかし、スペースの問題さえ解決できれば、日本でも徐々に増やすべきであろう。慣れればとても快適だ。
 経験上、どの国でもラウンドアバウトより、単に「サークル」と言ったほうが通じやすいが、日本では「同好会」のように聞こえてしまう。そうなると、短縮造語の得意な日本人のこと、マタニティーハラスメント=「マタハラ」の如く、ラウンドアバウト=「ランダバ」ということにでもなるのだろうか。
 
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▲妻が立つのは、イタリア・リミニの住宅街にあるラウンドアバウトの手前。日曜の昼だったので人通りもない。後方のオリーブの大樹はサークルの中心、右上に見えるラウンドアバウトの標識は世界共通だ

 
 
  oma  
  今年の秋は駆け足で過ぎていくようだ。九月半ばだというのに真砂坂の銀杏は実が落ち始めた。今朝もまだ薄暗い中、近くの婦人がビニール袋にトングを使って拾い集めていた。  
han
  title77
2014 / 7 / 29
 
 
 

村のワタシの船頭さんは ことし六十のお爺さん
年を取っても お舟をこぐ時は 元気いっぱい 
ロガシナル それ ぎっちら ぎっちら ぎっちらこ

 

 還暦すぎの方々には懐かしい童謡だろう。しかし事務所の新人はこの歌を知らないらしい。
 今考えると笑うしかないが、歌を覚えた当時は「村の私の船頭さん」と思い込んでいたし、「ロガシナル」は単なるおまじないの言葉だと思っていた。まさか「櫓が撓る」だとは。耳から覚えた幼児の理解力とはその程度のものなのだろう。
 ところで、六十歳=老人、はその頃の私には当たり前のことだった。まわりで唯一の年寄り、私の祖母もまだ五十代であった。
 世間一般もそうだったのだろう。私が大学を卒業したころは五十五歳が定年だった。それがいつの間にか、六十を超え、今や六十五歳定年が企業には義務づけられたらしい。ま、本人も元気で、やる気があり環境も整っているのであればそれも良かろうが、政府の思惑で年金受給開始年齢を引き上げ、さらに所得税を徴収するためだとしたら、困ったものだ。若者の就職への影響も大きい。
 幸か不幸か、私の仕事には定年がない。とは言え、いつまでも事務所にぶらさがっているわけにもいくまい。経験というあやふやなもの以外、肉体も頭脳も、すべてが壊れつつあることは確かだ。そろそろ自分で引退の時期を決めねばならない。
 私を含め、将来の「高齢者像」が見えない。
 近頃は「隠居」という言葉も聞かなくなった。

 
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  ▲福岡で法事があり、唐津まで足を伸ばした。外観内装ともに豪華な「旧唐津銀行本店」を見学、鉄格子から妻が顔をだしているのは当時の受付カウンター。地下の「唐津迎賓館」というレストランの佇まいやランチも素晴らしかった  
 
  oma  
  「船頭さん」の歌、まことにのんびりとした牧歌的な風景描写に聞こえるが、もともと戦時下につくられ、原詩の二番、三番には「お國の御用」「戰地」などの言葉がみえる。「平和」という言葉は信用できないが、断じて「戦争」は嫌だ。  
han
  title76
2014 / 5 / 29
 
 
   帰国から四日経つというのに、時差ぼけが治らない。行きは何ともなかったのだが、帰りの便は太陽と逆回り、おまけに機内映画を四本も観てしまい、殆ど眠らない十二時間だったからだろうか。それにしても歳を感じる。
 五月中旬、イタリアのミラノで車を借り、ピアツェンツァ、パルマ、ボローニャ、リミニ、そしてサンマリノ共和国と、エミリア街道沿いの街を走ってきたのだが、いつになく目的地まで時間がかかってしまった。以前は行き当たりばったりでホテルを決めていたのだが、最近はインターネットで予約をするようになり、かえってそれに縛られてしまったのだ。カーナビも満足な地図も持たずに、予約したホテルを探すのは結構むずかしい。頼りにしていたスマホのGPSは反応してくれない(ドコモの指示どおりに海外設定をしたのに)。
 こうなると現地の人に聞くしかない。通行人や商店の人はみな親切だが、殆ど英語は通じない。早口のイタリア語で延々と喋ってくれるのだが、次の人に聞くとまるで反対の方角を示されることもある。近頃は私の「第六感」も頼りない。結局、時間ばかりが過ぎていく。
 反省=昔のようにまた、行き当たりばったりのホテル探しに戻ろうか。それとも妻の言うように、そろそろレンタカーはやめて、鉄道やバスで移動しようか(そうしたら車内で酒が飲めるのだ)。
 しかし、リスクを背負っても何故かまだ、自分の意志で足掻き、失敗し、スリルを味わいたいのだ。爺のわがままだろうか。
 
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▲世界で5番目に小さな国「サンマリノ共和国」(八丈島ほどの面積)を訪れた日は、年に一度のクラシックカーの祭典当日だった。狭く急な山道を昔日の名車が何百台も私たちの車を追い越してゆく。一般車は山頂の手前で止められ、駐車場も関係車両のみ。翌朝、妻の遙か後方には標高794mの山頂・断崖絶壁に三つの砦がかすかに見える

 
 
  oma  
  「エミリア=ロマーニャ州」の南端、アドリア海に面する町「リミニ」は映画『道』『8½』などで知られるフェデリコ・フェリーニの生誕地だ。ここにある小さな「フェリーニ博物館」を楽しみに探し訪ねたが、長期閉館中だった。残念。  
han
  title75
2014 / 3 / 27
 
 
   やはり私がいけなかったのだろうか、安易にスマートフォンに切り替えて。
 「こちらは…センターです。音声に従ってご希望の番号をお選びください」。これが数段階、そして 「オペレーターへ順にお繋ぎします。なお、お客様との会話は、お問い合わせ内容の確認とサービス向上のため録音させていただいております。あらかじめご了承ください」。あげく「只今たいへん通話が混み合っております。恐れ入りますが、のちほどお掛け直しいただくか、もうしばらくこのままお待ちください」 である。
 スマホには取扱説明書が付いていない。質問はセンターへ、電話で問い合わせるしかないのだ。
 やっと担当者が出ても、(教育の成果だろう)同じトーンで慇懃無礼なご挨拶に続き「お客様と同じ機種をご用意いたしますので、お待ちください」。おいおい、私は目覚まし時計の設定を聞こうとしただけなのに、と思っても仕方がない。退屈なメロディを聞きながら待つしかないのだ。再登場の彼に細かい内容を聞くと「少々お待ちください。詳しい者に聞いて参ります」ときた。なんなのだよ、もう。従来のケータイは、目覚まし機能など誰にも教わらず使えたぞ。何でもできる便利なスマホは、特別な設定など無しで使えてこそのツールだろう。
 それにしても情けない。若者たちは抵抗なく使っているのだろうが、スマホ機能のごく一部しか使えないし必要としない私を含めた高齢者は、スマホなど持つべきではないのか。
 初めから言ってくれ。 「老人はスマホ禁止」と。
 
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  ▲パタヤビーチといっても海岸は水泳に適していない。ホテル中庭のプールで泳ぎ、魚のオブジェにまたがってポーズを決める「幼児体形」の妻を見て、若者たちが笑っている  
 
  oma  
  二月中旬、タイのパタヤに遊んだ。長い海岸線にはホテル群が林立、メシは旨いし中心部は何でもそろう歓楽街だ(偽ブランド品が堂々と売られているのは中国や韓国などと同様)。日本人観光客は殆んど見かけず、ロシア人とオーストラリア人が多く感じられた。  
han
  title74
2014 / 1 / 27
 
 
   昨年の秋、恐怖のメールが届いた。
「あなたのパソコンは、あと半年で寿命が尽きます。現在使っているソフトも使用不能になります。すぐに新しいものに買い替えなさい。さもないと、ウィルスに感染…」。
 パソコンを使い始めて三十年、自慢じゃないが、その原理など解るはずもなく、ただ記録や検索の道具として付き合ってきた。その私にこんな脅迫状が来たのだ。パニックに陥るのは当然だろう。まわりの人たちに聞いたが反応は鈍い。「今頃そんなことで悩んでいるの」。どうやら彼らは、以前からこの日を予見し対策を講じていたようだ。
 思い詰めた私は、パソコンの余命三ヶ月に迫った
一月中旬、最新の機械とソフトを求めて量販店に走った。これで怯えなくてすむならば大枚をはたくべきだろう。
 鼻息も荒く新機を持ち帰り、いざセットアップしようとしたが、その手順が分からない。専門家に頼んで見てもらったら、あっという間に立ち上げ完了。しかし私が使おうとすると、以前のパソコンと同じようには動いてくれない。聞くと「昔のものと違うのはあたりまえ、あなたの用途に合った参考書を買って勉強するしかないですね」と、つれない返事。
 やはり勉強するしかないのか。この歳になって専門用語だらけの参考書など読む気はしない。でもこれが使えなければ日記も書けない。
 未来の生活は簡単便利になると信じて生きてきた。それがこの仕打ちか。冗談じゃあないよ。
 
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  ▲現在の集合住宅に越して7年、毎年正月の賀詞を書いた畳大の和紙をエントランスのガラスに貼ってきたが、この大きさの書が体力的に無理になる将来のため、今年から小さく書いたものを拡大印刷した布を使うことにした。右は妻、左は手伝っていただいた自治会役員の方々(昨年末撮影)  
 
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  新年早々、携帯電話を失くしてしまった。この際だからと流行りのスマートフォンを軽率にも購入してしまったのだが、こちらも操作が分からない。スマホには取扱説明書が付いていないのだ。サービスセンターに電話しても要領を得ない。むろん理解できない私が悪い。あゝ、つくづく情けない。  
han
  title73
2013 / 11 / 28
 
 
   つい最近、小笠原近海の海底火山噴火で新しい島が出現、世間では「日本の領土が増える」などと騒いでいるが、これによる地震などの影響は無いのだろうか。心配だ。
 そんな中、この十二月五日、「東日本大震災」から一千日目を迎える。被災地への関心は残念ながら徐々に薄れていくが、避難生活者が、いまだ三十万人もいるということを銘記せねばならない。
 それにしても、今年も災害が多かった。従来、国内ではあまり聞いたことがなかった「竜巻」の多発をはじめ、相次ぐ幾多の台風、記録的な強風雨、それによる崖崩れ、土石流や高潮、そして十一月上旬、早くも豪雪のニュースも聞かれた。
 自然災害とは別なのだろうが中国から飛来する「PM2.5」も心配である(光化学スモッグはどこに行ってしまったのか)。
 地球温暖化が唱えられて久しいし、「エルニーニョ」、「ラニャーニャ」や「オゾンホール」などはよく分からないが、やはり怖い。
 わたしだけが特別感じているわけではないと思う。千年に一度といわれた東日本大震災を(予想被害で)さらに大きく上回る「首都圏直下型地震」や「南海トラフ地震」「東海地震」などが襲来したら日本はどうなるのか。事が大きすぎて、私の頭では考えようがない。
 日本中どこにいようが恐らく、いつかは大地震に遭うと想定し、生活をすることだ。もちろん、海外でも何らかの災害に遭わずに済むという土地などないだろう。できる範囲の備えと覚悟を持って淡々と生活するしかない。
 
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  ▲倒木(根元の切り口に顔を描いたら、足のような根とあいまって「ナマケモノ」のようになった)を前に。左は、国際的に活躍するアーティスト向井勝實さん  
 
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  那須の田舎家も台風二十六号の被害に遭った。庭の神樹(ニワウルシ)が根こそぎ倒れたのだが、敷地内にしか影響がなかったので幸いだった。樹高十三b、幼木を私が九年前に移植したものだった。  
han
  title72
2013 / 9 / 27
 
 
   この九月半ば、秋のフィンランドを旅した。首都ヘルシンキの中心街を歩いて感じたのは、音楽が聞こえてこないこと。デパートや専門店内でも同様だ。大きな声を出す人もいない。私の錯覚なのか、日本や地中海沿岸都市の喧騒とは大違いだ。
 それはともかく、最初のOホテルには参った。日本でネット予約をし、到着したのだが、泊まる直前に送信してくれるはずの部屋番号が私の携帯に届いていない。百以上の客室があるのにフロントもない、どころかスタッフが誰ひとりいない。エレベーター脇の電話でセンターに連絡し、氏名や予約番号を告げてやっと部屋番号を聞き出した。部屋の鍵もなく、開閉も暗証番号だけだ。これは確かに効率的だろう、清掃スタッフのみで運営できるのだから。サービスは一切なし。このホテルの部屋には、電話機もなかったのだ。
 もう、冷淡と感じるより不思議である。みんなこれで満足なのか、というより大丈夫なのか。この国のホテルに泊まるには常時パソコンやスマホを持っていなければならないのか。人口が少なく合理的な北欧は、そこまで進んでしまったのだろうか。
 空港でレンタカーを借りた時もそうだった。カウンターには数社兼務の女性スタッフがひとり。契約を終えパーキングに行っても現場スタッフはいない。すべて自己責任。結局無事にドライブは出来たが、世界はもう、こうなってしまうのか。
 ホテルもレンタカーも、こんなの初体験である。日本はオリンピックに向けて『おもてなし』と騒いでいる。どちらが良いのかは分からない。
 
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  ▲フィンランドといえば、ムーミン。そのムーミンワールドは八月下旬で終了。島に渡る橋のある村「ナーンタリ」もシーズンオフで、ほとんど無人。ホテル滞在は私たち夫婦だけだった。この日は私の誕生日、ムーミンに関係なく夕陽を見ながらビールで乾杯。  
 
  oma  
  紅葉の進む秋のフィンランドとはいえ、たまたま天候が良く、暑くも寒くもない快適な日々を堪能できた。十月にはもう雪が降るという。  
han
  title71
2013/ 7 / 29
 
 
   敬愛する故・山本夏彦氏なら、海外旅行常習者を、こう嗤ったかもしれない。
 私たち夫婦の旅行は、仕事がらみの場合もあるが、大抵はただの貧乏旅行である。とはいえ、漠然と旅するわけではない。観光らしきものもあるが、現地でのイベントに参加する、以前から気になっているものを確認する、知人に会いに行くなどの目的も多い。
 今回、初夏のスペイン旅行は、十年以上会っていない友人を訪ねるためでもあった。彼女Keikoは画家で、二十年以上マドリッドにアトリエを構えて生活している。数年前に結婚して(付き合いは長いらしいが)今はトレド郊外の一軒家に暮らしている。日本人と接する機会も殆んど無いらしく大歓迎を受け、二日間お宅に泊めていただいた。スペイン人のご主人(やはり画家)は初対面だったが、以前から話を聞いていたので、すぐに打ち解け、楽しい時間を過ごすことができた。
もうひとつの目的はジブラルタル。地中海に突き出たこの小さな町は英国領である。国境検問所を抜けた途端、道路は飛行場の滑走路と直角に交差する。そのため、離着陸の時には交通が遮断され、滑走する航空機を見守るということだ。残念ながら今回はその光景には出会えなかったが。
 マドリッドからグラナダ、アルヘシラス、セビーリャ、カセレス、そしてトレドへと走り廻った十日間、スペイン南部の旅であった。
 夏彦氏には「二流の愉しみ」と言われそうだ。
 
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  ▲広く清潔な邸宅で二日間お世話になり、マドリッドに発つ朝。玄関前のテラスで、くつろぐ恵子/オランド夫妻と、手前は妻。  
 
  oma  
  セビーリャの街に着いたのは日曜日で商店はすべて休み、開いているのはバルのみだった。二十qほど離れたCoria del Rioという村に日本の皇太子が昨日訪問されたとの情報があり、さっそく現地まで車を飛ばす。四百年前、支倉常長の率いる遣欧使節団が九ヶ月間滞在した場所である。川沿いの公園に、その記念碑はあった。宮城県から寄贈された支倉常長像を眺めていると、どこからともなく現地の人たちが集まり、私たちを囲んで集合写真撮影会になってしまった。この村には、現在も六百人ほどの日本姓の持ち主がいるそうだ。実際その場にいた老人が見せてくれた名刺には確かに「日本」の文字が印刷されていた。。  
han
  title70
2013 / 5 / 27
 
 
   長嶋茂雄選手は、少年時代から私の憧れであった。巨人(読売ジャイアンツ)は大っ嫌いだったが、長嶋選手だけは特別だった。大学時代は、長嶋選手だけを見るために後楽園球場でビール売りのアルバイトをしていたほどである。
 その長嶋さんが、このたび国民栄誉賞を受賞した。それにはなんの異論もないのだが、何故か釈然としない。いまさらの感がするのである。長嶋さんが選手として活躍したのは十七年間、引退して、はや四十年近くが経っているのだ。いまも私の中では、憧れの長嶋選手なのだが…。
 似たような感覚を味わったのが、富士山の世界遺産登録のニュースに対してだ。「よかった、うれしい、長年の悲願達成、日本の名誉」などと浮かれた声ばかりが聞こえる。
 しかし、富士山は富士山であったし、これからも富士山である。私は富士山が見えれば、それだけで幸せ、ユネスコにいまさら認めてもらう必要などない。肩書きやお墨付きなど不要なのだ。海外での知名度アップなどというが、すでにFUJIYAMAは定着している。
 それより、環境保全や入山規制などをどうするのか。年間数十万人が登頂をめざすと聞いているが、これを減らすことのほうが大事だ。間違っても「街づくりの起爆剤に」などと騒がないでほしい。
 活火山として心配される噴火などが、もし起きたとしても、富士山は日本人にとって日本の象徴であり続けるに違いない。出来れば、今の姿を保ってほしいものだが。 
 長嶋さんと富士さんは『永久に不滅です』。
 
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  ▲以前泊まった瓦屋根の韓式旅館は姿を消し、骨董屋が埃を被っていた仁寺洞(インサドン)はおしゃれな街に変貌していた。ポストと妻の後ろからは現代(ヒュンダイ、韓国では、ほとんどがこのメーカー)自動車がゆったりと進む  
 
  oma  
  二十数年ぶりに韓国ソウルを訪れた。当時はオリンピックが終わったばかり、まだ中心部にも舗装されていないガタガタ道が多く、やたらニンニクの匂いに悩まされた記憶があるが、今回は清潔で活気に溢れた若いソウルを楽しんだ。  
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