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●月刊誌『健康と良いともだち』からの転載です。

  82〜80 slash 79〜70 slash 69〜60 slash 59〜50 slash 49〜40 slash 39〜30  

  title59
2011 / 7 / 27
 
 
 

 小学三年の春、私の家族は父の転勤のため兵庫県西宮から広島に転居した。 「なぜ原爆の落ちた所に引越すの、怖くないの」と友達に聞かれたものだ。原爆被災から十三年後のことである。
 爆心地から二kmほど北東に位置する私たちのアパート前には乳牛の牧場があり、裏は蓮根畑。町中とは思えないほど豊かな自然と、言葉遣いは荒いが親切な隣人に囲まれていた。
 そんな広島の、原爆ドームが見える太田川での夏、私たち子供は元気に泳いでいた。川の中では数多くの魚にも出会えた。しかし、日本の高度経済成長に伴い、三年もたつと、蓮根畑は埋められて宅地に変わり、泳いでいた川はいきなり遊泳禁止になった。川の浚渫工事のためだった。
 原爆から十三年目の広島に、どの程度の放射線が残留していたのかは知らない。私の担任教師を含め、原爆による「ケロイド」を持つ大人は多かったし、十年過ぎて原爆症を発症し死に至る人たちもいた。だが、当時の市民が元気で明るかったことは、私の記憶に鮮明である。

 今回の大震災、大津波、そして原発事故。
 特に原発事故による不安が、全国を覆っているのは確かである。事故からもう五ヵ月、不安は増すばかりだ。これは一体いつまで続くのか。
 広島市の中心部に投下された原爆と、今回の福島第一原発事故とを単純に較べる訳にはいかないが、せめて日本全体が、被曝を気にせずに暮らせる日がいつになるのか、誰か教えてほしい。
 その日が分かれば、あの頃の広島市民のように、もっと元気と希望を持てるはずだ。

 
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  ▲今年も那須の庭の老木から200個もの梅実を収穫した。全て梅酒に化ける。秋には飲み頃だ。放射線など気にしない人、一緒に飲みましょう(写真の梅娘? は筆者の妻)  
 
  oma  
  事務所を引越して(同じビルの二階から八階へと移っただけ)二カ月、やっとエレベーターのボタンを押し間違えなくなった。利点はなんと言っても風通しの良さと明るさ。四方の窓が開くので、節電には効果が大きい。もうひとつ、「東京スカイツリー」が窓から丸見えなのだ。  
han
  title58
2011 / 5 / 26
 
 
   今年の春も、通勤途中の道端で私の目を愉しませてくれたのが、地面から三十cmほどの高さにオレンジピンクの花をつける野草、ナガミヒナゲシだ。漢字名「長実雛芥子」は、実の長いヒナゲシという単純な命名だが、昨年まではその名を知らず、やや小さめのポピーだなと思っていた。
 初めてこの花に出会ったのは十数年前のスペイン。荒地のなかにぽつんぽつんと咲く可憐な姿に惹かれ写真を撮って、これを印刷したポストカードは、今も手元にある。が、実際に東京の路傍で見かけたのは、つい五年ほど前だった。
 ナガミヒナゲシは花期を終えると、やがて茎に逆円錐状の実が直立する。面白い形なので実を裂いてみると、飛び出したのは黒い微細な粒状の種だった。それも夥しい数の、まさにケシ粒だ。
 まだ那須では目にしていないので、この花をぜひ咲かせたいと思い、昨年二十個ほどの実をポリ袋に採取した。すぐに実の隙間から袋の中に大量の種が零れ落ち、袋を振るとさらさらと音を立てる。ペットボトルのキャップひとつに納まるほどの、おそらく一万個以上の小さな小さな種が簡単に手に入ったのだ。この無数の種から、ナガミヒナゲシが那須の春を彩る様を想像し、楽しくなったものだ。
 しかし昨年の夏、せっかちな私は雑草生い茂る庭に、採集した種を一度に、ばら撒いてしまった。野草だから一割ぐらいは咲いてくれるかな…と。
 そしてこの春、那須の庭にナガミヒナゲシの花は、一輪も無かった。時期をずらして計画的に蒔くべきだったのか。
 でも来年こそは、きっと咲かせてみせよう。明朝、晴れたら収穫だ。
 
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  ▲ナガミヒナゲシの花と実。5月23日早朝撮影(江東区南砂町の道端で)
花言葉は「安らかな心」だという
 
 
  oma  
  この三カ月弱で、なんと五kgも体重が減った。病気なのか?
心配無用、昼食(特に炭水化物)を少な目にしただけなのだ。以前は必ず大盛りライス、ただのデブだったのだ。しかし今度は、リバウンドが怖い。
 
han
  title57
2011 / 2 / 24
 
 
   十日間のキプロス旅行から帰ってきたところである。いつものように妻とふたり、レンタカーの旅だった。
 出発前、「なぜ、キプロスに?」と、よく問われた。帰国後も同じことを聞かれた。今回は仕事とは関連のない旅である。なるべく、日本人の行かない、知らない小国に行きたかったのだ。地中海の好きな妻も同意はしたが、やはり「なぜ?」でもあった。 それでも私はキプロス島に行きたかった。数十年間、紛争で南北に分断され、境界には国連軍駐留の緩衝地帯がある。南はギリシャ人の観光国として栄え、今ではEUにも加盟している。対して北は、トルコ軍が占領して、国際的には認められず、「国」といえない「地域」、きっと貧しいところに違いない。
 図書館やネットで調べても北に関する情報は非常に少ない。首都「ニコシア」(この都市さえ南北に分断されている)の中心部に、徒歩での越境が許可されている地点が一箇所あるのだが、はたして観光客が南北を車で通過できるのだろうか。渡航直前になり、どうやら首都近郊に、北へ抜けるチェックポイントがあることが分かったが、ギリシャ語の住所だけで、場所を示した資料もないまま日本を発つ事になった。
 南キプロス・ラルナカ空港の案内所や警察で尋ねても同じことだった。どうも外国人には教えたくないようだ。それでもどうにか住所からそのポイントを探し出したが、やはり地図にはそれらしきマークさえ載っていない。漠然とした不安は残った。
 しかし、実際は拍子抜けだった。南からの出国はノーチェック、緩衝地帯を百メートルほど走り北の管理所で二十ユーロ・三日間有効の保証金を払い、パスポートではなく、渡された紙に氏名と国籍、パスポート番号を書くとスタンプを押され、車内の検査もなく、すんなり北に入ることが許可された。その横では愛想のいい男が、北のカレンダーや観光資料などを、どっさりくれた。
 なんなんだ、これは。南は観光客をなるべく北に行かせまいとして、このチェックポイントの地図さえ示さない。北は観光客大歓迎。キプロスのイメージが狂ってしまった。(つづく)
 
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  ▲ニコシア中心部から3kmほど西にある「国境」。2月の朝の冬空だが、空は青く日差しは強い。看板には WELCOME TO THE TURKISH REPUBLIC OF NORTHERN CYPRUS 「ようこそ、北キプロス・トルコ共和国へ」とあった  
han
  title56
2010 / 12 / 10
 
 
   若い頃は、記憶力が自慢だった。勉強はともかく、中学三年時はクラス全員五十一名のフルネームを出席番号順に書くことができたし(それがどうした)、社会人になってからも五十件以上の電話番号を暗記していたものだ。
 なのに、私のアタマは一体どうなってしまったのだろう。近頃は前夜の食事、会ったばかりの人の顔や名前、固有名詞、普通名詞が出てこないことなど日常茶飯である。これが「呆け」なのか。
 そして電話番号に至っては、毎日通話する妻の番号さえ覚えられない。この原因だけは、はっきりしている。携帯電話のせいなのだ。
 私は一九九四年にドコモに加入している。携帯電話は非常に便利で、基本的には時間と場所を選ばず通話が可能である。しかも着信履歴は残るし電話帳機能も備えている。
 しかし「便利」は人を壊していく。この年、私の頭脳は「記憶する」という能力を放棄したようだ。
 その後、私は分厚い手帳を棄て、パソコンで日毎の記録をつけ始めた。これで私は、記憶と記録を機械に委ねたことになる。
「表」形式のソフトが、住所録はもちろん、日記として行動や予定、食事内容や場所、主な出来事や感想などあらゆる記録を残してくれる。それに、天気、出退社時刻、事務機器の使用状況、世界の情勢、日経平均株価、果ては知り合いや有名人の死亡日まで加わった。おまけに、息子が買ってくれた血圧計(二十回ほどの結果を記憶できる)の記録まで参加させてしまった。
 おかげで、私および周囲の過去の記録がいろいろ検索できる。それは確かに面白い。
 しかしその反面、この記録作成と(便利な)検索のために、私は膨大な時間を失ったことに気がつく。それでも、記録の項目や内容は今後さらに増え続けるだろう。今日も瑣末な事柄を入力し続けるのだ。この膨大な情報が近い将来、生かせるかどうかも分からずに。
 でも、もうアナログに戻ることは出来ない。便利なケータイとパソコンの奴隷のようだ。そして、記憶力も時間も戻らない。
 
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  ▲先日購入した体重計(体組成計というらしい)はすごい。体重はもちろん、BMI、体脂肪率、筋肉量、推定骨量、基礎代謝量などのほか、なんと「体内年齢」を教えてくれる。私は現在49歳らしい。そうか、そんなに若いのか…  
 
  oma  
  飲食店を出てから薬を飲まなかったことに気付くことがある。薬は飲み貯めが出来ない。で、自販機で飲料を求めるのだが、「熱いか冷たいか」の選択を迫られることになる。各メーカー様、自販機で常温の水の販売を検討しては如何だろうか。  
han
  title55
2010 / 10 / 27
 
 
   高血圧といわれて三十年近くになる。
 といっても私の場合、通常の「高血圧」ではない。いばるわけではないが、最高血圧が常に百六十以上、寝起きなどは二百程度があたりまえだったのだ。
 長年の主治医は「頭痛や目眩がないのだから大丈夫でしょう」と至って呑気、降圧剤は飲みつつも気にはしていなかった。
 そんななか、夏の終わりの日曜日、事務所で「脳卒中」爆弾が私の頭の中で炸裂した。
 なんの前触れもなく、ぽとぽと落ちるよだれ、歩けば机の角にぶつかる、話す声は呂律が回らない。これは脳の発作だ、とは私でも気づいた。複数の知人から体験談を聞いていてよかった。
 ●症状に気付いたとき、意識はまだはっきりしていたので診察券と保険証をまず用意した。●救急車は呼ばなかった。●日曜なのに、すぐタクシーが拾え、道が空いていたので目指す病院の救命救急センターに五分足らずで到着した。●以前もそのセンターにお世話になっていたので受付がスムーズだった。●たまたまそのとき処置室に急患が少なかった。●当日、脳神経外科の専門医が在室中だった。
 いやぁ、本当に運がよかった。おそらく症状に気づいてからCT検査を受けるまで二十分はかからなかっただろう。
 結果は右脳奥での親指大の「脳出血」、短時間の遅れでも言葉や運動に問題が出たかもしれない。血液凝固や降圧のための点滴を受けながらストレッチャーでICU(集中治療室)に向う時、動く天井を見ながら「運の神様」に心から感謝した。
 さて、退院してからひと月半、半分出社しながら徐々に普通の生活への復帰を目指している。
 ところで退院以来、すごい変化が身体の中で起きている。通常血圧を維持しているせいか、うん○が理想的な硬さと大きさで定期的に排出されているのだ。あわててトイレに駆け込むことはなくなった。
 こんな「運」のいいやつはいない。
 
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  ▲入院当日、集中治療室に妻がやってきた。このとき私はまだ血圧が正常ではない。それでもお約束、とばかり、息子に写真を撮らせるのだ。ま、仕方がない、これも記念写真。しかし「Vサイン」はないだろう  
 
  oma  
  服用を命ぜられた薬は六種類。これが朝昼晩とすべて違う組み合わせなので面倒だ。そこで、百円ショップでいいものを見つけてきた。昔の鉛筆入れのようなプラスチックケースだ。これがすぐれもので三×七室の小さなブースに分かれている。一日三回、一週間分の薬が分割され、服用するときは楽である。しかし楽でないのがこのケースに薬を入れ分けるときだ。与えられた薬はひとつを除いてすべて同じ大きさで同じ白色。それぞれの服用数が違うので一旦入れ間違うと混乱する。薬粒にはルーペで見ないと分からないような小さな刻印しかないので区別がつかない。製薬会社さん、どうにか色分けするなど、わかりやすくしてください。  
han
  title54
2010 / 8 / 23
 
 
   学生時代、よく映画館に通った。しかしロードショーとは縁遠く、いつも行くのは名画座といわれる二番上映館であった。
 あの頃は、朝からおむすびを持って大学は自主休校、飯田橋佳作座や池袋文芸坐などの二本・三本立上映で一日を過ごすこともあった。同じような学生がうろついていたことを考えると、映画は安手の娯楽と教養? だったのだろう。
 邦画洋画を問わず数多くの映画を観たが、当時はまだ情報誌が発達しておらず、一般紙夕刊のごく小さな案内広告を頼りに映画館を巡ったものだ。
 社会人になってからも細々と映画館通いは続いていたのだが、この五年ほどは、めっきり映画館から足が遠のいてしまった。コンピューター処理だらけの映画が増えたことも一因ではあるが、自宅に大画面のTVを導入したことが、その大きな理由だ。
 なにしろ二時間の映画が約二十本、テープやDVD無しで本体に録画できてしまうのだから、つい急かされるように観てしまう。衛星放送などでのノーカット上映も魅力的だ。かくして我が家の休日の夜は「在宅映画鑑賞会」となってしまった。
 しかし映画館に足を運ばない理由はこれだけではない。自宅だと費用が掛からず、都合のよい時間に、酒をちびちび飲みながら、トイレの我慢が不要なことはありがたい。しかも掟破りの「二度見」も可能。つまり私は「便利」に流されてしまっているのだ。これは「老い」のせいだけではあるまい。反省。
 もし、私みたいな怠惰人間が増殖しているならば、それは映画に対する冒涜といえるかもしれない。緊張感のない態度で映画を観るべきではない、と学生時代の私なら主張したはずだ。
 だが、一度獲得してしまった利便を手放すことは非常にむずかしい。このまま在宅鑑賞のみで良いわけはないのだが。
 
 むかしは小便臭かった早稲田松竹、改装して座席も広くなり、評判が良いらしい。ウィスキーの小瓶でも忍ばせて、数十年ぶりのあの名画座へ行ってみようか。
 
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  ▲新装なった衆議院議員会館を見学した。以前に比べ倍以上の広さの部屋が各議員に与えられ、贅沢すぎる気さえする。さてその11階から見下ろした国会議事堂は化粧直し中、目隠しをされているようで所在無げであった。  
 
  oma  
  カメラを失くしてしまった。二週間も経つので、もう戻っては来ないだろう。カメラ本体はさておき今は記憶カードの時代、四ヶ月分・約三百枚の画像が消えてしまった。バックアップを取っておけばと悔やまれるが、後の祭りだ。バカ馬鹿ばか…  
han
  title53
2010 / 6 / 23
 
 
   東京の夏、特に梅雨の季節は苦手だ。黙っていても汗が出てくる。暑苦しいのは鏡の中だけで十分だ。
 というわけで、妻と初夏のハワイに行ってきた。格安の三泊五日パック、飛行機とホテルだけ用意されたものを利用して。
 実はハワイ、オアフ島は初めてである。。ホノルル空港も十数年前、乗り継ぎのために降りたことがあるだけなのだ。
 その初オアフ島、まったく噂通り、お気楽のんびり王国だった。全島どこでも日本語オーケー、蚊にもハエにも悩まされない快適さ、雨は降ってもサラッとしている。日中汗もかかず夜は涼しいので、エアコンを消し窓も閉めて寝ていたほどだ。
 さて実質三日間、一日目の夜は現地に長く暮らす友人と食事をし、二日目はカイルアビーチでシュノーケリング。三日目は朝早く車を借りて島を一周した。
 人混みはご勘弁なので、歩いて数分のワイキキビーチには足が向かず、ダイヤモンドヘッドも遠くから見ただけだ。
 そんな私たちにビッグな情報がもたらされた。なんと「気になる木」がこの島にあるという。何を隠そう、私はあの日立テレビCMのファンなのだ。
 なんとしても「この木なんの木」を自分の目で見た〜い。しかし、この木のあるモアナルア公園は、いつも日本人でいっぱいだという。で、朝八時前なら誰もいないだろうとレンタカーで向ったのだが、公園の駐車場には既に数台の大型バス、先を越された。
 ところで、この木はモンキーポッドという名で、ネムノキの仲間だ。島のいたるところに枝を広げている。街中には花が咲いている木もあったのだが、あこがれの大樹は元気が無さそうだった。たくさんの日本人観光客に疲れたのかもしれない。
 結局、この木との出会いが収穫のような今回の旅行だったが、帰国すると複数の知人からメールが届いていた。「あなたにハワイは似合いません」。
 確かに私もそう思う。
 
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  ▲元気の無さそうな「気になる木」、葉がとても少ない。もしかしたら樹医が治療のため葉を落としたのかもしれない。幹の下のほうには包帯のような布が巻かれている。はやく元気になってください。  
 
  oma  
  十四年間も私を診てくれた医師が、定年のためT病院を去ることになった。本来は消化器内科医なのだが、呼吸や心臓の相談にも応じてくれ、入院時には腹腔鏡手術の執刀もしていただいた。だが、紹介状を持って訪れた自宅近くの新しい病院は融通がきかず、従来と同じ薬を受け取るには四人の医師に掛からねばならない。しかも予約を取るのが大変、これでは病気になりそうだ。  
han
  title52
2010 / 4 / 28
 
 
   本はなるべく図書館で読むようにしている。週に数回、何冊かの本を平行して読み進めるのが、今は楽しい。
 神保町が近いので古書店街を巡ることも多い。趣味の植物関係の書籍などは、ほとんどそこで購入したものだ。
 いっぽう、以前から大型書店も大好きで、店内を半日歩き回っても飽きることはなかった。しかしこの数年は、年齢のせいもあろうがそれが億劫になった。コミック本が幅をきかせ、単行本も雑誌なみに入れ替わりが激しい。その雑誌類もインターネット、ゲーム、オタク系などに席捲され、穏やかな趣味の雑誌が次々と廃刊に追い込まれているのも、その理由のひとつだろう。
 ところで、読みたい本に限って手に入らぬことがある。それも文庫本となると図書館や古書店では、なかなか見つけにくい。先日、文庫本を四冊探して超大型書店を訪ねたのだが結局一冊にさえ出合えなかった。もちろん店内のパソコン検索もしたのだが、やはりだめである。念のため係の人に、取り寄せの場合の日数を問うてみた。問屋に在庫があれば一週間、無ければ版元からで、さらに二週間ほどいただきます、それでも絶版も考えられますのでご了……。いやもう結構、お世話さま。
 事務所に戻り、以前から気にはなっていた(が、食わず嫌いだった)「アマゾン」で検索すると、即座に四冊とも新刊が在庫ありと出たではないか。おまけに手数料や送料も不要だという。騙されたつもりで注文をしたのは午後四時。それがなんと、四冊揃って翌朝九時に宅配便で手元に届いてしまった。しかもダンボールでの完全包装である。これには驚いた。メモと睨めっこをしながら探し回った、あの時間はいったいなんだったのだ。
 これでは一般の書店に勝ち目は無かろう。けっしてネット通販の一人勝ちが良いわけはない。それでなくとも電子書籍の波はそこまで来ているのだ。
 嗚呼、書店巡りの楽しみが消えていこうとしている。
 
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  ▲先週金曜日、久々の仙台。今年度から女子生徒を受け入れ、ついに共学とな(ってしま)った母校「仙台一高」に新校長を表敬訪問(校旗に手を添えているのが筆者)。この日は雨だったが、やっと満開になったという桜が迎えてくれた  
 
  oma  
  四月九日午後、高校同窓会の講演依頼確認のため私は、高校の先輩でもある作家の井上ひさしさんの事務所に電話をかけた。自宅療養中とのことで後日連絡をいただく約束だったが、その夜、井上さんは息を引き取られた。ご冥福を祈るのみである。  
han
  title51
2010 / 2 / 18
 
 
   ここは銀座からも遠くはない中央区入船町。隣りの新富町は、私がデザイン仕事の世界に入りかけだった四十年ほど前、通っていた町である。
 以前からこのあたりは、幅広の道の整然とした町並みだったと記憶している。今は高層ビルやマンションそして地上げ跡の駐車場に侵食され、古い二階家などは肩身が狭そうだ。
 その夜、仕事の打合せを終えて最寄りの八丁堀駅に向かいながら道の両側を眺めると、ぽつぽつと点在する古家が、やけに懐かしく思えたのだ。
 ところどころに飲食店の電飾看板が灯っている。と、裏通りの角に「N平」という名のありきたりな店が目に入った。いったん通り過ぎたもののなぜか気になり道を引き返して、その古ぼけた居酒屋の戸をそっと開ける。
 L字型カウンターは八席ほど、土間を挟んで小上がりのある昔からの典型的な小料理屋である。うるさいTV・ラジオやカラオケもなく若者の喧騒とも無縁、年配の客をベテランの姉妹が明るく仕切っているようだ。
 築地にも近いせいか魚のつまみも豊富で黒板にチョークの品書きが溢れている。酒と肴がなんとも旨い。
「この店、何年になるんですか?三十二年、とすぐに返事がある。そうか、私の新富町時代とは重なっていないのか。にしてもかなり年季が入った店だ。清潔にしているが入口の引戸など、粘着テープで目張りをしている。
 ひとり、またひとり…と、どういうわけか「おひとりさま」中年男ばかりの御来店だ。よほど居心地が良いのだろう。これはいい店をみつけたものだ。
 そろそろ店が混んできたところで私は勘定をしてもらう。
「あと一週間…、来週の木曜日で店を閉めるんです。まだ貼紙もしてないけれど」。
 無理とは分かっていても、またいつか寄ってみたい気がする、数十年前にタイムスリップしたような時間と空間だった。
 この三月号が印刷される頃、ひとつの古い酒場が消える。
 
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  ▲砂町の居酒屋?「いしづか」の新年会(二月中旬!に開催)。おなじ建物に住む呑み助たち、両端の二人(私たち夫婦)を除き全員若者だ  
 
  oma  
  ちあきなおみが、歌の店仕舞いをして何年たつのだろう。彼女が歌った「紅とんぼ」という曲がある。インタネットのYouTubeで検索すればすぐ聴くことができる。ぜひいちど。  
han
  title50
2009 / 12 / 17
 
 
    晩秋、スペインの荒野を駆け抜けてきた。この国でのドライブ旅行は三度目である。と書けば格好よく聞こえるだろうが、歳のせいか以前にも増して道に迷ってばかりの旅であった。(情けない)
 しかし、それ以外は、気分も天気も快調。レンタカーのありがたさを痛感だ。
 ところで、(主にヨーロッパで)私たちがレンタカーを利用するのにはもちろん理由がある。
 まず待ち時間が要らないし荷物が気にならない。重いトランクを転がして出発時間を気にしながらバスや列車のターミナルへ急ぐことなどないのだ。(いやみ)
 そして誰にも気兼ねなく好きな時に出発し、好きなところで車を停めて新鮮な空気を吸い、景色を眺められるのも嬉しい。しかし最大の利点はホテル探しにあるだろう。
 宿の予約を取らずに旅を続けるのは、気侭ではあるが不安も感じるもの。これが車だと安心である。雰囲気のいいホテルを見つけたら、まず手ぶらでフロントに出向き、泊まる部屋を見せてもらってから料金の交渉だ。気に入ればチェックイン。そうでなければ他を当たればよい。ホテルはいくらでもあるのだ。(やけに強気じゃないか)
 さらに買物でもレンタカーは威力を発揮する。ホテルのミニバーは飲み物などすこぶる高価だが、スーパーマーケットを探せば、約五分の一の価格である。大量に買い込んで車のトランクに入れておけばその旅に必要なワインやチーズは足りるだろう。(ちと浅ましい)
 と、都合のいいことばかり並べてみたが、単独個人旅行の場合レンタカーはどうだろう。コストが掛かるし、一人だけの運転で長距離移動は危険だ。だいいち旅の楽しみを誰かと共有できないのは淋しい。その点でも私は妻というセカンドドライバーに恵まれ、幸せである。(車の中で女房と二人きり、口喧嘩をしながら煎餅を喰い、演歌のCDを聞いているなら日本で自宅にいるのと同じじゃないか、という厳しい見方も確かにある)
 もちろん私、バスや列車の旅行も大好きなので(車中で酒が飲める)、そろそろ小さなトランクでゆったりと旅を楽しみたいものだが、そういう日々は果たして、いつか訪れるのだろうか。
 
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  ▲カンタブリアの山奥、ポテスの町に寄ってみた。歩道は小枝ごと刈り取られたばかりのプラタナスの葉でいっぱいだ。木の高さも4mほどに切り揃えられる。太い幹に瘤だらけの短い枝、スペインでよく見られる冬の風景だ。妻が抱えているのはもちろん、ワイン…  
 
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